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東北大学薬学創設十周年を迎えて 小澤 光

 以下は、1965年、あみこす9号に掲載された故 小澤 光 先生(当時薬学科主任教授)の玉稿です。40年後の今でも色あせることのない薬学100年の計について語られています。薬学部昇格に際して理想とした3学科21分野も、その後の多くの先生方のご努力により、2003年の新棟建設によりついに実現したといえます。今、創立50周年を迎えるちょうどこの時期に、薬学部6年制がスタートします。今まで以上に「ビジョン」が望まれているといえるでしょう。

 東北大学に薬学科が創設されたのは昭和32年4月で、全く月日の経つのは早いもので、昭和41年で10周年を迎えることになった。

 現在、薬科大学または薬学部(科)を有する大学は合わせて34校あるが、わが東北大学はその中にあって決して駆け出しではなく、すでに確固たる地盤を築いたのである。これは1つには東北大学の50数年にわたる伝統と輝かしい歴史の賜でもあるが、薬学に職を奉ずるものや、あるいは卒業生一人一人の努力によるところが大きいことは申すまでもない。

 このことに関連して東北大学薬学科には伝統というかあるいは方向付けというか、一つの気風が現れたことも見逃すわけにはいかない。これは中にいるとさほどに感じないものであるが、第三者から見るとはっきり認識されるものである。

 この気風は、研究第一主義という精神である。教養部の時代からの大学の持つ雰囲気の影響と、「薬剤師をつくるのではない、研究者を養成するのである」という薬学科の方針とが学生諸君に強い共鳴を与えているためであると思う。

 この精神こそ諸君の誇りであり、また生き甲斐でなくてはならない。

 我々はこの伝統を育むべく今後も微力を捧げるつもりであるが、やがてはこの伝統は羅針盤となって力強く推進することであろう。

 先般、日本薬学会の理事会において、本学薬学科の新入会員が多く、会員数が東大や京大を越して全国第一位になったことが注目を浴び、大いに賞賛されたが、これなど研究に対する諸君の熱意を端的に物語るものであろう。

 次に10年を回顧するに当たり施設関係を見るに、本建築で1,228坪の校舎が完成し、1講座あたり150坪の文部省の基準面積をもつ(有効面積1講座110坪)、この点では他の大学に比して遜色はなく、また国立旧制6大学では始めての製薬製剤工場をもっていることも誇って良い。さらに内部設備についても今年度にNMR(核磁気共鳴分析計、価格1,100万円)も入り、大体薬学として必要な機器は一通り揃うに至り、たいていの研究には事欠かなくなった。

 他の薬科大学に比して研究分野においては恵まれている現状である。

 先日も某旧制大学の教授が来校されて、後から設立されて、施設や設備の点では完全に先を越されたと感嘆されておられた。事実、研究発表の論文数においても新しい統計はないが、旧制大学の中でも決して遜色がないことは職員・学生数の少ない本学としては誇るべき点だと思う。

 とにかく、現状は新しい大学としては内容も充実し、かなり満足すべきものであることは学生諸君も感じておられることだろう。

 しかしわれわれは“10周年を迎えて”といっても過去ばかりふり返るのはやめよう。われわれはまだ若いのだから前向きでものを考えなくてはいけない。ここらで薬学の今後あるべき姿、いわばビジョンを語ろう。

 東北大学薬学の100年の大計を皆さんとともに考えてみたいと思う。これは独善であってはならない。わが国の薬学あるいは製薬界の今後の進路を決めるものであって欲しい。薬学教育は常に薬業界のパイロットであり、指導理念であってこそ始めてその意義がある。

 前にも別に述べた通り、わが国の薬学研究者は製薬研究の全ての分野を覆っている。ドイツやその他の多くの国の薬学が開局薬剤師の養成であり、米国は薬剤学に重点をおいた教育をし、フランスは公衆衛生に力を入れ、英国は薬理学に特色を出していると云われており、各国各様であるが、薬剤師養成の立場はかわらない。しかしわが国の、少なくとも旧制国立大学の薬学教育は製薬のあらゆる分野の研究者の養成を目標としている。戦前は有機化学においてトップレベルを維持したが、戦後は薬剤学と生物系の学問、特に薬理学が導入されて一歩前進した。このバランスの取れた研究と教育とにより、他の力を借りることなく医薬の進歩をもたらし、世界的な新薬創生への道が開かれるものと信じる。

 この製薬研究の姿を反映した薬学部の構成が望ましいわけであるが、更に製薬研究の態勢をリードする教育であることが理想的である。

 私どもは先般来、薬学部昇格と青葉山移転の問題とを論議し、近い将来に薬学部設置基準にもとづき、製薬化学科、生物薬学科を加えた3学科 21講座の薬学部をつくる必要を痛感したが、現在地では発展のゆとりがなく、広い天地へ出るべきであると決意したのである。川内青葉山移転推進本部の会議で3学科建物としては、少なくとも4,000坪の建坪が必要であり、その3倍の敷地と、更に3,000坪の薬草園と、計15,000坪が不可欠であることを強調してきたのである。幸いにして各方面の理解をうるに至ったが、なお多くの曲折があるものと予想される。

 その他、附属設備としては製薬製剤工場、動物舎、RI施設の他にガラス工場、工作場とが望まれ、また学生や職員の福祉厚生施設も絶対に欠くべからざるものであることを主張してきた。

 更に薬学の教育、研究の遂行上、総合大学としての利点を生かすには基礎分野では理学部との協力が、また応用面では医学部との協調が必要であることを力説したが、理学部からは快諾をもって受け入れられ、隣接する予定となった。また医学部はもともと医学・歯学・薬学の三学部でメヂカルセンターを創ろうとの構想をもっていたので、薬学が離れることに難色を示されたが、面積の点で止むなく同意された。

 したがって何とか研究・教育上のこれまでの協力態勢を今後も更に緊密なものにすべきであるとの意見もあらわれた。

 ところでこのところ不幸な事態で、計画は一時頓挫をきたしたかに見えるが、やがて時が解決し、理想の実現の日が来ることを信じている。批判や反省をくりかえしつついつかは正しい線におちつく。これが大学の良識というものであろう。

 十年の歴史は一つの転機を画するものであり、今後の薬学の進路について清新で進歩的な若い方々のビジョンが大いに尊重されなくてはならないと思う。

 前向きで建設的な考え方こそ薬学100年の計を律するものであろう。

 そしてわが国第一級の理想の学園の建設に力を合わせて進もうではないか。

(1965. 10. 5)