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佐藤進先生特別寄稿「往時茫々」(1)- 片々を紡ぐ -

(1) ― 片々を紡ぐ ―

 東北大学薬学研究科のホームページの歴史の項目を開けると『本研究科における薬学教育の歴史は古く、明治23年の第二高等学校医学部(医学部の前身)の薬学科にはじまり大正6年まで本学医学部専門部薬学科として存続しました。 その後40年の空白を経て昭和32年 医学部薬学科が設置され、昭和47年 薬学部の誕生となり、平成11年からは大学院大学としての薬学研究科がスタートしました。』との記載がある。当時東北/北海道でただ一つの官立の薬学教育機関であったに違いない薬学科はどのような経緯で大正6年を以て廃校に立ち至ったのだろうか。大正15年の東北六縣藥剤師聯盟創立総会では、東北に薬学教育機関設置を文部省に要請する決議が行われ、その後も繰り返し設置運動が続けられたが、文部省は設置する意図のない事が明らかとなったという(宮城県史6、衛生史)。私は本大学在任中の最後半の時期、同僚諸氏の大きな助力を得ながら大学院重点化と称された大学院大学への改組の作業に携わり、非力ゆえに日々呻吟を重ねた経験がある。いかに組織の維持と発展には並み大抵でないエネルギーが必要かを実感した。退官後まもなく、それまでとは一変して気の遠くなるような時間を持て余したのを幸い、我が薬学研究科のルーツを探る文献渉猟を始めた。以下未整理ながら今まで得られた数々の断片をご紹介したい。

 最初に、かねてから目にしていた医学部解剖学講座の山本敏行教授が著した次の一節を引用する。『東北帝国大学が発足すると、仙台医専は帝国大学に付属する事になり、明治45年(1912)3月をもって「東北帝国大学医学専門部」と改まった。これはやがて医科大学を開設するための準備措置であった。大正4年(1915)6月には、医学専門部は片平丁の校地から北四番丁に移転した。(中略)また、医専の学生募集は、大正3年春を最後に打ち切られた。そのため大正6年に薬学科、7年に医学科の学生が卒業して、医専は学生がいなくなり、事実上廃校のような形でなくなってしまった。このように、医専の関係者にとっては、はなはだ不本意な結末となったので、一時は不穏な空気が流れたほどであった。なお、薬学科は東北帝国大学には引き継がれず、大正6年3月をもって幕を閉じた。以来、昭和32年の医学部薬学科開設まで、本学は薬学科を持たなかった(東北大学艮陵同窓会小史、1994)』とある。この一節によれば醫学科は組織的には一旦は廃止されたものの、事実上帝国大学に引き継がれたとも解釈されるが、藥学科は廃校の運命を辿った事が明らかである。さしたる不穏な空気も流れる事なく、何の存続運動もなく廃校されていってしまったのかと、時代の流れに乗り遅れた東北の薬学教育の姿を口惜しい念を以て想像せざるを得なかった。

  明治5年設立された共立病院を母体として、その後宮城病院付属醫学校(明治12年設立)を経て設置された宮城醫学校(明治15設立)内での明治13年春に始まった7名の薬学生に対する2年間の教育が仙台における薬学教育の嚆矢である。薬学教育に宮城病院藥局長兼藥学教授として携わった鈴木省三氏は化学/植物学をも担当したが、同15年病院を辞したので、二回目の薬学生の募集は行われなかった。文久1年9月生まれ福井文太夫の履歴書について、「明治13年5月 宮城病院付属医学薬学部入学、明治14年8月卒業、明治15年2月宮城病院薬局雇申付、明治15年10月宮城医学校教育補助拝命、助手」と記載されているのが、現在まで出会った当時の薬学教育を示す唯一の手がかりである。

 医師でもあり仙台最初の薬剤師であった鈴木省三氏は、共立病院の給付生として東京大学醫学部製藥学科別課(第一回生)に派遣され明治11年12月に卒業した(卒業証書授与は同12年5月)。氏は雨香と号し、郷土史家/文筆家として仙台では広く人口に膾炙された博覧強記の人物である。鈴木省三氏は宮城病院を辞した後、明治20年、仙台区長十文字信介氏の斡旋で薬種商が出資した仙台共立薬学校を仙台市南町に設立した。東北各地からの薬剤師養成の要望に応え30名以上の藥舗開業試験合格者を輩出したという(続仙台風俗誌:歴史図書社版)。鈴木省三氏は薬剤学の泰斗として名高い仙台出身の清水藤太郎博士(独学で19歳にして薬剤師試験に合格)と共に仙台にかかわりの深い薬学の先達として、仙台の薬学徒に長く記憶されるべき人物である。

 話を元に戻す。明治21年3月第二高等中学校醫学部が発足し、明治23年8月医学部に3年制の藥学科が設置された。これを機にその任を終えたものとして仙台共立薬学校は廃校となる。明治34年全国5つの高等学校醫学部は『醫学専門学校』として独立した。仙台醫学専門学校長は山形仲藝であった。その後、東北帝国大学に組織化される『医科大学設置に至る迄の間、医科大学教授に就任する予定者が次々に着任した。医専関係者の間では、医科大学ができるときは、医専がそのまま医科大学に昇格するものと考えられていた。ところが、実際に蓋をあけてみると、教授陣も学生も医科大学には引き継がれず、いずれも新たに出発する事になっていた。医科大学の教授予定者として東北帝国大学が発足した後に着任した少壮教授と山形仲藝は別として、多くの人は、やがて退職せざるを得ない事になってしまった(東北大学艮陵同窓会小史、1994)』という。学生は勿論、教授陣も山県校長以外は全く新しい陣容に一変したのである。かくして生徒募集も大正4年から停止され、大正6年に藥学科を閉鎖、醫学科も翌年最後の学生を卒業させた。醫学専門学校は東北帝国大学醫学専門部として新たな組織として発足したが、藥学科は附属病院薬剤部にその片鱗をとどめはしたものの教育機関としては全くの廃止に追い込まれたのである。以後、昭和14年の東北藥学専門学校(現東北薬科大学)の設立まで北海道/東北地区の薬学教育機関は永年途絶したのである。(日露戦争が終結した好況の中で、懸案であった東北帝国大学の設置は明治40年6月21日付けで、同年9月1日をもって仙台に設置されることが決定された。先ず最初に発足したのは札幌農学校を母体とした農科大学で、次いで同44年1月1日理科大学が開設された。仙台醫専は明治45年3月29日をもって東北帝国大学醫学専門部と改まった。これはやがて医科大学を開設するための準備措置であった。大正4年に医科大学となり、大正8年に醫学部と改称された。)

 文献渉猟の最初の成果は東北大学記念資料室での薬学科廃校直前の記念写真帳(アルバム)との遭遇である。記念資料室の永田英明氏の話によると本アルバムは1998年12月東京電気大学理工数理学科 桜井明氏より本学前理学部数学科教授 土倉保氏へ送付されたもので、その後記念資料室に寄贈されたとのことである。アルバムの巻頭言を御紹介する。

己亥(きがい)会記念冩真帖のはしがき

己亥会ハ明治三十二年第二高等学校醫学部藥学科の教官生徒が熟議を凝らして己亥攻学会の名を以て興したる創れり 其起る動機や種々有りしなるべけれど 本邦に於ける薬学の地位 四囲の事情及ヒ当時の藥剤師の品性等は其当時 本校教官生徒に多大の刺戟を与へ少くも此小団体を作り互ニ琢磨研鑽し学科を錬り品性を高め 学徳兼備の薬剤師となり 互に聯関してハ強固なる一団となるも他日為すあるの基礎を築けるものなり 予不肖を以て明治三十三年本校に職を奉じて以来 規則に拠りて挙げられて会長の重職を汚すこと十有四年 而して浅学菲徳(ひとく)会務挙がらず毫も創建者の意に副ふ能ハざりしは甚だ慚愧に堪へさりし所なりきを 然るに世の進展ハ醫育統一問題となり 仙台ニ東北帝大醫科大学を設立せらるゝ影響として従来の醫専は廃校となるの結果 当藥学科に実ニ悲惨の運命に遭遇せんとす 同窓者として誰れが一掬の涙無きものあらんや 本邦に於ける藥学の不幸なることは 曩(さ)きには岡山医専藥学科の廃滅せられしあり 而して今や仙台には醫科大学新設され仙台醫専は廃校となると云ふと雖 実ハ仙台醫専醫学科の昇格に外ならず 独り藥学科のみ之に伴はず 之れが後身も亦興らず全然廃絶の悲運を見んとす 悲しまざらんとするも豈得んや 然りと雖 今更其罪を糺し其責を論ずるも已に及ぶ無し 此際に当り巳亥会ハ会員相互相識の便に供せん為め 又団結を堅うするの一助とせん為め 会員の影を一冊に蒐め 一面創立十五年の記念として記念冩真帖を作製することの全く徒労の業に非ざるを信ず 乃(すなわち)ち一言を述べて冊首に冠すと云爾

  大正甲寅仲秋             無私庵識るす
                           佐野印
  大正4年6月25日印刷 6月28日発行
  東北帝国医学専門部内己亥会記念15年冩真帳調製委員
  印刷調製所 仙台市東一番町27番地 仙台冩真版印刷所 主任 佐藤徹二
  撮影所東一番町27番地 佐藤冩真部 仙台市

 文面によれば己亥会は明治32年(1899)発足し、大正4年(1995)は15年目にあたる。明治33年(1900)に第二代薬学科長佐野喜代作の落款が印されている。本文を見ても廃校に到った経緯は詳らかでない。東京大学薬学前史(250ページ)には、『東北帝国大学医学専門部は大正6年官立医科大学に昇格分離する際、予算の関係で薬学科を放棄した。千葉、金沢、長崎の医専が医科大学に昇格したのは大正12年のことになるが、薬学専門部がこれに所属した。』とあるが、これだけでは納得できない。上記のはしがきの文中「岡山醫専藥学科の廃滅せられしあり」との記述を追いかけ、藥業雑誌(44号 339-341ページ、明治27年8月10日)に到った。やや長文ながら当時の薬学教育事情を活写し、また仙台醫専藥学科についての記述も含まれているので以下引用する。

 鳴呼斯学斯業の前途を如何せん 本年6月高等学校令を発布せらるるや、其結果端なくも我が藥学会に波及し、為に第三高等中学校に於ける藥学科を廃し、第二高等中学校は薬学生徒の募集を停止する事に決議せり。吾人如何に考ふるも其所以を解する能わず。夫れ医学と藥学の関係は恰も唇の歯に於ける如く、又軾の轍に於ける如く、相依り相輔け、須叟も相離るべからず。若し唇にして亡びんか、歯寒からんと欲するも得べからず、軾にして損せんか、轍危からざらんと欲するも得べからざるなり。医学藥学の偏重偏軽すべからざる夫れ此に如し。然るに今回第二第三高等中学校に於ける藥学科を廃し、又生徒募集を停止せられたり。嗚呼我学業の前途を如何せん。吾人その廃止の理由なりとする処を聞くに、曰く高等学校令発令に就いては、醫学科の程度を高めんとするも既定経費の以て如何ともするなきより、勢ひ藥学科の経費を削減し其費途に充てざるべからず、是今回之を廃するの必要を感じたるなりと。是其見当を誤りたるものと言わざるを得ず。
想ふに本年5月各高等中学校長会議の開かるるや、彼等は単に其主事者の報告のみを聞き、専門家の意見は毫も叩く処なく、匆卒の間に之を決したり。彼等は斯学に於いては 門外漢なり。故に其前途に於て思慮の及ばざりし所ならん。宣なり、此の如き決議をなしたること又深く怪むに足らざるなり。然りと雖どもこの結果により将来の潮執を推究せんか、所謂霜を踏んで到らんとするものにし、他の高等中学校に於ける藥学科の前途亦大に危ふしと言わざるを得ず。而して今試に各高等中学校に於ける藥学科生徒の現在の員数を聞くに、第一高等中学校20人、第二高等中学校10人、第三高等中学校50余人、第四高等中学校30人、第五高等中学校20人未満(以上概数なり)。見るべし、五高等中学校中藥学科生徒の最大数を占めたるものは則第三(高)校にあらずや。之れ同校は其位置枢区にして斯業の中心点たる畿内に接近したるに由る。今この第三高等中学校に於ける薬学科を廃するは、吾人の大に疑ひ且惑う所なり。
(中略)
畢竟斯学の発達は即医学の進歩と並行せしめざるべからず、然るに今その一方なる醫学科の程度を拡張せんが為、薬学科の最大数を占むる第三高等中学校の薬学科を廃し、又第二高等中学校藥学科生徒募集を停止せしは、果たして何の謂れぞや。彼の世間開業医等の医藥分業を欲せざるや、その口実は毎に藥学の幼稚にあるを説く。その意蓋し利己主義に出るとするも、或当局者にして今日分業の行われざるは、即藥学の進歩醫学と相伴はざるに帰するものあり、由是観之も、藥学を振起し醫学と相伴はしめざるべからざる之れを事実に徹し理論に照らして明なり。然るを一を進めて一を退け、一を起って一は仆るに任かす、之を如何ぞしてその目的を達するを得可けんや。(中略)吾人の意見此の如し。当局者宜しく藥学を発達せしめ、以て醫学と並行し、業の実を挙ぐるに(?)めんことを希望の至りに堪えず。苟(いやしく)も一葉落而天下知秋の悲境に陥らしむるなかれ。

 この文章から明治27年に第三高等中学校藥学科の廃校、一方第二高等中学校藥学科は結果的には存続という事態があった事が推測される。ここで第二高等中学校藥学科の志望者と入学生数を辿ってみる(別表:記念資料室員 永田英明氏作成)。上記の藥学雑誌記載の文脈に合致して、明治27年、翌明治28年と入学者は皆無である。学生募集は二年間継続したのであろう。則ち一旦は第三高等中学校藥学科と同じように第二高等中学校藥学科も廃校の俎上に挙ったものと容易に想像できる。その後、なんらかの理由によって藥学科の廃校は免れ存続に至ったものと推測される。地域的な配慮や当時の校長や医学部関係者や薬業界の運動が功を奏したのであろうか。しかしこの推測を直接裏づける資料には未だ出会っていない。

 上記の藥業雑誌は、逼迫する国家予算のしわ寄せ、或いは当時から問題になっていた医薬分業法案の関係から学科廃止の理由を忖度している。それ以前より紆余曲折のあった医薬分業問題は第5帝国議会(明治26年12月)に提出されたが議長裁決の結果、反対多数で消滅した経緯がある。その理由に薬学が未だ医学の水準に達していないことを挙げている。第三高等中学校が水準の高い薬剤師多数を世に出している点から、之を廃止して反対理由の持続を計ろうとする政治的配慮であるとまで、廃止の理由を憶測しているのである。「岡山に於ける近代薬学教育」(小山鷹二著)によると、廃止に至った背景に当時の第三高等中学校長や医学部主事の動きにまで及ぶ記述があるが、それだけ当事者達の薬学科廃止に対する悲憤慷慨の様子が激しかったのであろう。第一高等中学校医学部主事の薬学科廃止に対する反対振りが同校薬学科助教授によって同校の存続にいった功労者として高く評価されているが(藥業雑誌150号 834ページ、明治 27年 8月)、当時の藥学科廃止の動きが如何に激しかったことを推測させる 。藥学雑誌仙台地区通信(188号1023ページ、193号 298ページ)の記事に第二高等中学校薬学科の2年間の学生募集停止、そして一時中断していた募集の再開の記事に関する記載がある。募集停止や再開の方針はずいぶんと激しくゆれ動いたかとも想像される。しかし明治45年発足に到る東北帝国大学の設置に伴う大正6年医学専門学校藥学科廃校の詳細や想像される存続運動の様子を示す資料には到達できなかった。

 さて、本アルバムにはアルバム作成時の藥学科教室、医学専門部付属病院、実習風景(植物実習、衛生化学、分析実習)と共に当時の教官(佐野科長、井川寛一郎教授、細井美水教授、篠原吉祥教授、米城善右衛門助教授)、更に当時の佐野科長の前任の八木長恭(第一代)、須田勝三郎(第二代)、西崎弘太郎(第三代)各科長の肖像写真も掲載されている。第二高等中学校医学部藥学科時代からの学生全員(216名)の肖像写真の掲載もされており薬学研究科にとっても極めて貴重な資料である。貴重な資料の故、些か躊躇されながらも格別の許可を得て行ったコピーを紹介する。やや画像鮮明ではないが往時の薬学徒や教官の姿が彷佛と想像できるではないか。まさに往時茫々の感禁じ得ず、薬学の大先輩と初めてお会いし懐かしさすら感じ、しばしアルバムに見入った次第である。「醫専」から「醫科大学」の発足を控えて北四番丁への移転(大正4年6月)したことが明らかになっているので、藥学科は醫科大へ組織化しなかったことを考えると、撮影場所は片平地区時代のものであろう。

 以下各教官について、その後の文献/資料による調査で今まで得られた情報を断片的であるが紹介する。

(初代藥学科長)

八木長恭

東京大学醫学部製藥学科明治12年卒業(第2回卒業生10名の内の一人)
嘉永6年群馬縣東群馬郡前橋生まれ、明治18年宮城醫学校の教諭として赴任、いったん同校を辞職するが、その後、第二高等中学校発足に際して化学担当として再び招かれ、初代の藥学科長を務める 在任明治23(1880)―明治33(1900)。以下は東北大学記念資料室保管の明治19年1月同人記の履歴書である。

明治2年    前橋藩の藩費生徒となり昌平学校に入り漢籍を学び、大学廃止の後、与田良平に就き律書を修む
明治5年  旧前橋藩の命に依り転学 大学南校に入り独逸語を修め其後文部省の官費生となり鉱山学を専修
明治8年  大学校中退独逸語を置かざるの議成るを以て 同年9月大学医学部に入り製藥学を修め其成規約に従い定期並びに卒業試験を受く
明治12年9月  和歌山県醫学校教諭拝命学校生徒に理化学を授け傍ら病院藥局長を兼ねまた衛生上の分析を負担しかつ地方衛生会の委員となれり
明治13年11月 満期解す
明治13年12月 群馬県衛生課所属化学師となり専ら衛生上の試験を担当しかつ縣立病院藥局長を兼ね地方衛生会の委員となれり
明治18年12月 本職および藥局長を辞す

(第二代藥学科長)

須田勝三郎

東京醫科大学製藥学科第2回卒(明治12年7月)

(第三代薬学科長)

西崎弘太郎

明治29年東京大学製藥学科卒、昭和8年度藥学会会頭

(第四代薬学科長)

佐野喜代作(後に義職と改名)

明治33年赴任、出身大学など詳細調査中である。明治13年1月東京大学醫学部製薬学科別課卒である佐野高之助や明治22年宮城県藥舗開業試験委員としてその名が挙げられている佐野孝之助とは別人であろう。

教授/助教授

井川寛一郎

明治40年 東京帝国大学醫科大学藥学科卒業、醫科大学助手 東京藥学校に職席あり(東京薬科大学九十年史)、明治45年、仙台醫学専門部教授

細井美水

明治40年 東京帝国大学醫科大学藥学科卒業 東京藥学校講師、醫科大学助手 明治45年 仙台醫学専門部教授、(父は、明治12年第2回東京大学医学部製藥学科卒細井修吾、八木長恭と同期、明治19年秋田県立医学校教諭に赴任、後警視庁技師 性狷介正義感強く硬骨漢の評判が高い、明治26年42歳で逝去、相馬事件の藩主誠胤の吐瀉物の毒物鑑定をしたため、影の強権出で殺されたの噂が立ち、各方面から同情が集まって、遺児(細井美水博士)の育英金を募集との逸話あり(創立80周年記念藥剤師会史より)

篠原吉祥

明治27年 第二高等中学校醫学部藥学科卒、 明治30年 第二高等学校助教授、明治45年 仙台醫学専門部助教授、大正3年 仙台醫学専門部教授

米城善右衛門

明治32年第二高等学校醫学部藥学科卒、日露戦争従軍、大正3年 仙台醫学専門部助教授、後に宮城県、北海道、京都藥事係り、三共大連支店長兼工場長、大坂工場長、東北中学化学教諭、古川高校化学教諭、アルバムにては植物実習の右上白衣姿で映っている人物である。 
 明治26年1月1日現在の(薬学雑誌132号、203ページ、文部省令第15、16、17号)第二高等中学校醫学部薬学科担当教官として八木長恭の他、佐野正種助教授、伊沢富次郎講師(嘱託)が挙げられている。調剤手であったらしい佐野正種(東京府出身)については、明治29年死亡記事(薬学雑誌、明治29年、1061ページ)を見い出したのみでである。伊沢富次郎は東京医科大学製薬学科第5回(明治14年4月)卒で宮城医学校にて一等助教諭として物理学、動物学、植物学を担当(明治19年12月宮城県改正職員録と県庁願伺届綴り明治15ー21宮城医学校の項に記載)、後に明治30年台南病院薬局長(薬学雑誌 明治30年、182ページ)。なお薬学教育に関連の深い宮城病院、仙台医専並びに医科大学附属病院薬局関係の教官等についても今後調査を行いたい。

謝辞 写真帳ならびに関係文献を御紹介戴いた東北大学史料館(文学研究科日本史学講座)永田英明氏に深謝する。難解な文章の解釈に御指導下さいました本学工学研究科都市建築学専攻永井泰雄博士に、文献等の調査に御協力下さいました東京薬科大学医療薬学講座大山良治博士に感謝する。貴重な写真帳を御寄贈された(仙台醫専薬学科と何らかの深い関係ある方と推測している)東京電気大学理工数理学科 桜井明氏ならびにその労をおとり下さいました本大学前理学部数学科教授土倉保名誉教授氏に対し深甚なる感謝を申し上げる。