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佐藤進先生特別寄稿「往時茫々」(2)-往時の仙台の薬学・薬剤師教育-

(2)-往時の仙台の薬学・薬剤師教育-

 今を去るほぼ百二十年前の明治十五年四月二十五日の陸羽日々新聞は当時開設された調剤薬局の様子を以下のように伝えている。

調剤所 当区南町の薬舗蕉南堂にて今度其の舗内に一局を開きアポテーキを開業するの目的なりと。一体西洋及び支那などに於ては医家はただ病人の様態を診察しこれに処方書を授くるのみにてして医家にて直ちに其の薬剤を調合し与ふることを為さず医家より処方書を受取って薬舗に持ち行き配剤を頼むの習慣にて其の便利を極むることなるが日本にては古来の仕切りにて医家は薬舗を兼ね大抵は与ふる所の薬剤の代価をも指示さずために無用の時間を費やすのみならず多少の心配を為さしめるための不都合多かりしかば東京始め大都会の地は己に右調合所も処々に開け、種々この弊を除けり。然れとも当地の如きは未だこのことあらず。旧弊依然たるを憂へ蕉南堂の主が元宮城医学校の教諭たりし鈴木省三氏と相計り氏に委して調剤製薬の業に従事せしむるに至りしなりと云えば世の病者追々この此事の便利に感じ方書を持参して配剤を頼むもの月一月より多きを加えん事亦遠きにあらさるべし。

 以上の記事を改めて解説する程でもあるまい。明治政府よって舵が大きく切られた医療制度の一つに医薬分業がある。宮城県での嚆矢と伝えられている蕉南堂調剤薬局の開設は医薬分業の象徴である。翌日の紙上に下記の広告が見られる。

○広告
 弊舗従来薬種商業罷剤候処尚ホ調剤製剤の主任を置き世上の需メに応セントス此段広告ス  蕉南堂
 生儀今般蕉南堂調剤製剤二従事ス此段辱知諸者ニ□申す  鈴木省三

 蕉南堂は明治五年に設立された共立病院の直営の医薬品の供給所ともいうべきものであったらしい。これは病院北隣の商家を買収して、九年に開設したもので、いわば洋薬専門の薬舗であった。その後、共立病院は宮城病院を経て最終的にはその組織は現在の東北大学医学部附属病院に受け継がれていくのである。さて、この蕉南堂 で調剤業務に当った鈴木省三氏はどのような人物なのか、彼が執筆した『続仙台風俗誌』の巻末に自ら書き記した経歴書から抜き書きをしてみる。

○嘉永六年 名取郡岩沼同心町に生まれる。
○文久三年十歳邑主の侍童として岩沼城内に上る。
邑主一家に従い仙台邸(今の西公園)に移る。
○慶応二年十四歳邑主より石田氏(仙台藩医)へ入学命ぜらる。
○慶応三年十五歳学資として二人扶持米八表を給せらる。之を石田氏(名は道隆、御奉薬)に納む。
○明治二年十七歳世は維新となり百度興廃一ならず家禄も減じて五百文となりて農に帰し平民となり学資を給せられざるに至りたれば石田氏を退し岩沼に帰る。
○明治三年十八歳山本氏(立庵)に寄食して医学を学ぶ。
○明治四年十九歳北目村にて医業を営み僅かに糊口をなす。
○明治五年廿歳中目齋、石田真(先の道隆氏の養子)共立病院を南町に開き日新の医術を施し傍ら生員を養ふ 余その生員となる。
○明治六年二十一歳 一月薬局生に挙げられ生徒長を兼ね病院の賄を食し金五十銭を給せられる。
○明治七年二十二歳四月登米病院開設につき薬局生となる。金十二円を受け後診察方として金二十五円を受く。
○明治九年二十四歳本院に帰る。
十二月三日院費用医学生として選抜せられ学資月八円外に春秋二季洗濯料として十五円を給せられ東京大学医学部に入学し専ら薬学を修むる事となる。本郷五丁目島名方に下宿す。

 すなわち鈴木省三氏は、仙台藩伊達家臣の着座格に位置する岩沼古内氏に仕えた後、中目齋氏並びに石田真氏(いずれも東京大学の前身の大学東校へ入学)の創立した共立病院の医員となり、抜擢されて二年制度の東京大学製薬学科通学生(後に別課或いは別科となり三年制度)となり、明治十二年春卒業した。それ故に鈴木氏自らが宮城県最初の薬剤師と称したのである。東京大学医学部製薬学科が第一回の本科五年制の学生が入学したのが明治六年であり、最初の卒業生の輩出は明治十一年である。明治九年に二年間の即修を目的にしたとはいえ、西洋医学に立脚した当時の最新の薬学を学習した鈴木省三氏が本県に当時の近代薬学を導入しようとした任務は大きかったに違いない。帰省後、鈴木省三氏は共立病院から発展的に改組された宮城病院で薬局長兼同附属宮城医学校化学動植物学の教授となった。その際薬局にて六名の薬学生を輩出させたという。そのうちの一人に福井文太夫氏がいる。東北大学記念資料室所蔵の宮城医学校関係の資料の中に彼の履歴書を見い出したのでそのまま下記に記す。

履歴書

宮城県宮城郡南小泉村 百廿八番地士族 福井文太夫文

久元年九月生

明治十三年五月 宮城病院附属 医学校薬学部江入学
明治十四年八月 卒業
明治十五年二月 宮城病院薬局 雇拝命
明治十五年十月 宮城医学校教 育補助依命

 薬学部など表記が必ずしも正しいとは思えないが、修学期間が一年三ヶ月と極めて短期間ではあるが、当時の薬剤師教育の様子の一端を窺うことができる。これが本県に於ける薬剤師教育の嚆矢であろう。

 鈴木氏は宮城病院薬局での薬品納入に問題が生じその責任を執り辞職後、東京留学の学費の援護者にもなった蕉南堂の調剤主任となった。蕉南堂は共立病院が県に移管されるとともに独立していたのである。蕉南堂は、調剤薬局開設によって「暴利をむさぼりまたは粗雑の薬品を販売する薬舗を辱める畏伏せしめた」と鈴木氏自身は評している。仙台河原町出身の元東邦大学薬学部教授清水藤太郎氏によると、「蕉南堂は、店の間口が七、八間 奥行3、4間ぐらいあり、その北隣には大きな薬品倉庫が南町に接して二、三棟のある仙台最大の薬舗であった』とある。

 やがて間もなく鈴木氏は薬学校の創立を図った。明治二十年五月三日の奥羽日々新聞はその創立式典の有り様を下記のように報道している。


同校は既に前号にも報せし如し一昨一日を以て開校式を行はれたり 元来同校は純然たる共立の仕組にてその筋の保護は毫も受けざる者なれど 薬商諸氏は非常に熱心に其の設置を計画し且つ鈴木省三氏主として之を幇助せられ 遂に八百四円の義金を得て該校を設くるに至れるなり 然れば校舎の如きは商家を借りて之に充て 器具の如きも亦完備せんと云ふを得ざれど所謂枝を以て堅甲利兵を制するの趣きあり 彼の白亜を以て内部の醜を覆ふ者とは宵壌の差と云ふべし 当日臨会の人々は、十文字仙台区長、恩田三等薬剤官、秋山学務課長、大立目県属、鈴木区書記、開業医諸氏弊社員等にて席定まりし後ち教員鈴木省三氏祝辞を朗読し 次に石田真氏の祝辞、十文字仙台区長の演説あり右終わりて祝宴を開き 午後四時頃を以て退散せられたき今ま同校の規則を得たれば左に登録す

とある。仙台市南町三十一番地に設置したとの記録からたどると、現在の芭蕉の辻の南にあたる現在の芭蕉の辻ビル向かい近くであった思われる。当時の宮城県知事に上申した設置願書の中に仙台の薬種商として小谷新右衛門、櫻井伊助、後藤清善氏等の名が見い出される。小谷新右衛門(小谷薬舗、当時の芭蕉の辻にあり、現在の歯科医師会館)、櫻井伊助(櫻井伊助薬舗、新伝馬町、現在の櫻井薬局)は古くからの仙台屈指の薬舗である。後藤清善(別名長吉)氏は蕉南堂の会計を担当していた。蕉南堂は設置された薬学校の向いに位置した。仙台の薬業界で昭和、戦後にわたって仙台薬業界で隆盛を誇った仙台市河原町に本店を有した仙南堂は、清善氏の分家筋にあたる。明治二十年六月七日付の奥羽日々新聞によると、

仙台共立薬学校当区薬種商の共立に成り立ちたる共立薬学校は日を逐うて隆盛に赴き生徒も二十五名に達し、区内は勿論他県よりの入学者をも見るに至り、去月行われたる第一回の月末試験も三名を除くの外相応の成績を得しかば今度同校内ヘ調剤所を設け、教頭鈴木省三氏主任となりて広く調剤の需めに応ぜらるる由、尤も此調剤は生徒に実地上の経験を与ふる為なれど薬剤の配合等は鈴木氏 親から厳密に取扱ひ其の原質も区内屈指の薬商八名と協議の上、清撰を主とさるる趣なり

とあり、同六月十七日の奥羽日々新聞には

広告 本校内に薬局ヲ設ケ薬剤調剤ノ需メニ応ス   南町仙台共立薬学校

とある。

 今を去る百十五年前に、私薬学校附属薬局ともいうべきところで調剤実務実習を行っていたのであろうかと目を見張る思いである。当時は薬舗主に対する国家試験のための教育であっただろうから、其の知識及び教育レベルは現今の薬剤師試験とは大いに違うであろう。其の教育レベルを記録として残っている学校規則なる文書から見てみよう。

仙台共立薬学校規則

第一章 総則
第一条 本校は薬学生徒ヲ養成シ薬舗ヲ開業セシムルヲ以テ目的トス
第二条 本校は薬学ノ速成ヲ期シ文部省薬学校通則下款ト本県薬舗試験規則トヲ参酌シ簡易ノ学課ヲ設ケ国語ヲ以テ教授スルモノトス
第三条 校内ニ一ノ薬局ヲ置キ地方ノ標準夕ル可キ実格ヲ具有セシメ生徒ノ実地演習ニ備フ
第二章 学則
第四条 学課ヲ定ムル左ノ如シ コレヲ三学期ニ配課ス 但し第二期以下は羅葡語及ビ独乙語ヲ以テ薬物ノ通名及ビ処方書式等ヲ兼教ス
 第一期 理学 化学
 第二期 生薬学 製薬学
 第三期 薬品鑑別 処方調剤学 実地及定性分析演習
第五条  修学年限は一年半トス コレヲ三学期に分ツ 大祭日及び日曜日は休課スレドモ暑中休課ハコレナキモノトス
第六条  入学ノ生徒ハ年齢満十五年以上身体強健ニシテ修学中は一身ニ他ノ係累ナキモノトス
第七条  第三期ノ末ニハハ薬舗 開業試験ヲ出願セシメ純全ナル薬舗者タルノ資格ヲ実有セシムルヲ以テ本校ノ責任トナス
以下 第三章、第四章は略す。

(以上宮城県教育史 第4巻資料編 328号より転載、原文のまま)

 また、仙台共立薬学校教則に教課用書目として、例えば下記の教科書が挙げられている。生薬学(大井玄洞訳)、製薬全書(丹羽藤吉郎、下山順一郎編纂)、定性分析(日本薬局方官撰)処方学・調剤学(調剤要術勝田忠雄訳)などである。いずれも東京大学製薬学科通学或いは別科で採用されたものに準じているらしく、薬舗主試験のための補習学校とは云え、その教育レベルは決して低いものではなかったと思われる。

 仙台までの東北本線開業は明治二十年八月、電燈が市中を照らしたのは明治二十六年という時代から推しても、当時三十五歳の鈴木省三氏が薬学教育の先鞭となるの意気まさに壮の感を禁じ得ない。巷間に本邦の薬学史は数多いが、仙台共立薬学校の設立に関しこれを記録したものは皆無である。先に記した自他共に認める薬学史の泰斗である清水藤太郎氏ですら、その著書の中で各地の私薬学校を列挙しながら何故か仙台共立薬学校については全く記述をされていない。仙台出身の清水藤太郎博士が東北の薬学教育の原点を見のがしたわけでもあるまいが、その継続が余りにも短期間だったためであろうか。ちなみに、明治二十一年秋には十五名の卒業生の内、薬舗開業試験に十二名合格という実績を挙げたという。翌年二十二年の試験には全員合格し、卒業生で試験合格者の総数は三十名に上るという。明治二十三年に第二高等中学校薬学科が設立されたため、『不完全な教授を施して人材陶冶の妨げとなるを恐れ』第三期生の生徒募集は行わなかったと本人が述懐している(続仙台風俗誌)。三十名に上る全員の氏名は不詳であるが、多くは当時の宮城県の薬剤師会の活動を支えた有為の人材であったことは容易に想像難くない。ちなみに明治年間の県内の日本薬学会会員は二十五年には十一名、二十七年には十五名、三十年には十九名、三十八年には五十六名、三十九年には四十一名に過ぎない。明治三十五年に発足した薬剤師会の会員数は二十四名、四十五年に至って三十六名を数えるのみである。いずれの会員の中で相当の割合を占めるのは軍関係の薬剤官であることを考えると、地元の薬剤師の中で、薬剤師会や薬学会会員に占める仙台共立薬学校出身者は少なくはなかったのではないかと想像される。

 鈴木省三氏はその後、仙台検疫医、宮城県警察部衛生課長となり衛生業務に従事した。後年には松島瑞巌寺にて僧を相手に漢籍を講じたという。雨香と号し郷土史家として名高く、仙臺叢書22巻始め多数の著作を有する。鈴木省三氏は家庭的には極めて不遇の人であった。舟橋聖一によって彼の三女をモデルに著された小説「氷雪(りつ年譜)」(文芸春秋昭和十五年十二月号)に、彼の波瀾に満ちた苦労の多い人生を見ることができる。

 さて、当時の薬剤師の職務に深く関わる医薬分業の問題は薬学教育にどのように影響していたのであろうか。

 明治二十七年発行の薬学雑誌に十一月十日開催第二高等学校医学部卒業証書授与式の様子が報告されている。その祝辞の中に当時幾たびか大きな政治問題化になっていた医薬分業問題の側面を象徴している一節があるのでこれを紹介する。

 第二高等学校に於いては医学部医科第六回卒業生、薬学科第二回卒業生の為十一月十日を卜し証書授与式を挙行せり (中略) 医学部主事山形仲芸氏前年よりの報告を為す次いで学校長吉村寅太郎氏卒業証書を授与し祝詞を陳ぶ其大意は左の如し
 『本日医学部医科、薬学科卒業証書授与を挙行するに際し朝野貴顕紳士の臨席を辱ふせるは 實に本校の光栄なり 謹みて鳴謝す(中略)特に薬学卒業生諸氏の如きはこの学を利用するの業務は今日に於ても種々ある可しと謂ども其本業たる薬局事業の如きは本邦に於て未た目的の域に達せず 随て世人多くは其の用を覚らす政府に於ては夙に開明の方針により医薬分業の目的を以て之に必要なる法令等も発布せられたれども舊憤の久しき一朝にて其実行に至らざるは亦止む得ざる次第なり 然れとも社界の開明は着々歩を進めて止まざる物なれば早晩医薬分業に実行を見るの時期あるべし 諸子が今後学問研究に於ては夫れに便利の道もあるべしと謂えとも実業を採るに当ては定めて一層の困難を感するならん 然れども諸子の如く夙に其学問を修めて充分の準備あれば一朝其時期に際し大なる便利を得るに相違なし 諸子決して目前の困難に挫折する無益々奮発す可きの時なり 聊か祝意を陳ると共に卑見を一言す』

 ここに引用した祝辞後半の部分は、実効を挙げ得なかった当時の医薬分業の実態を示唆しているとともに、僅か二名の薬学科卒業生のために向けられたものであることを思う時当時の医学部学校長の薬学生に対する暖かい鼓舞に満ち溢れる祝辞にある種の感慨を禁じ得ない。その後の東北地方の薬学教育は第二高等中学校医学部薬学科に引き継がれる。時は移り、明治三十三年から仙台医学専門学校、大正元年東北帝国大学医学部専門部と変遷するが、その間二百十八名の卒業生を輩出しながら、大正六年廃校の運命を辿るのである。その後、東北、北海道地方の薬学教育機関は永年途絶し、薬学を学ぼうと志す者は中央や他地方の薬学校への進学を余儀なくされ、その経済的負担もさることながら、教育的損失は測り知れないものがあったに違いない。大正十五年の東北六県薬剤師連名創立総会では、東北に薬学教育機関設置を文部省に要請する決議が行われ、その後も繰り返し設置運動が続けられたが、文部省ではその計画が無いことが明らかになったという(宮城県衛生史)。東北・北海道地方の薬剤師養成はその後昭和十四年の東北薬学専門学校の開校を待たねばならなかったのである。

 あとがき

以上の拙文は昨年十二月発行の東北薬科大学同窓会報に寄稿したものをやや改めたものである。なお、原文の引用に際し、そのまま一部句読点など抜きとした。仄聞するところによると鈴木省三氏の出身地である岩沼市では氏の顕彰の行事を計画中という。昨年末、郷土史研究家の吉岡一男氏の筆になる「鈴木雨香の生涯と岩沼」が出版された(宝文堂)。鈴木省三氏の郷土史家(雨香と称す)としての博覧強記の活躍ばかりでなく、薬剤師でもあり、かつ薬学教育者という側面にも顕彰の陽をあててもらいたいものである。