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佐藤進先生特別寄稿「往時茫々」(3)- 往時の薬用植物採集旅行 -

 はじめに
東北大医学部薬学科2期生のクラス会が蔵王温泉で行おうという提案に、大方の賛同を得たのは、学生時代に蔵王へ植物採集に出かけたことが皆の記憶のなかにあったからであろう。昨月7月のクラス会当日、蔵王山頂でのお釜の姿は生憎の濃霧のため眺めることは叶わなかったが、竹本常松教授初め生薬学教室の先生方に引率された当時の植物採集の様子が、各人の口々から語られ、その断片をつなぎ合わせ過ぎし日に想いを馳せることができた。さて東北大学薬学部の前身である第二高等学校医学部(後に仙台医学専門学校)薬学科での薬用植物採集の様子はどんなものだったろうか。明治32年の薬学雑誌208号(P605~P606)の仙台通信に記載された当時の様子を伝える原文をそのまま書写して紹介する。通信員須田勝三郎(*)により当時の薬用植物の様子が活写され、蔵王近隣の温泉場の様子も伺われて興味深い。

段落も濁点などのないままなるべく原文のまま書写したものであるが、文中○や?は小生の国語力では判読できないか、または小生の使用ワープロでは該当する漢字に見あらないもので、或いは似たような漢字を充てているが定かでないものです。なお原文は縦書きになってるので、文脈上の不具合はお許し願いたい。

『蔵王山植物採集の記』

植物学研究標本採集の為四日間の脩学旅行を命せられたれは六月一日を期して出発と定め目指す処は県下の最高山なる刈田嶽すなわち蔵王山と定めぬ元来全数の生徒を伴う筈なりしか病気、事故などの為遂に七名を伴なふ事となり篠原助教授(**)も特志にて同行せられ其他助手守口庄六氏を伴ひぬ一日は折悪しく雨天なりけれは翌二日出発と定む二日の暁告くる鶏の声に驚され天気如何と戸を排けは東天薄紅ひに彩られて晨星影微かなり六時十五分の上り汽車に乗る予定なれは六時停車場に至る同行発車前に既に揃いたれは一同乗者の間もなく長蛇駛行する事二十哩大河原に着す時正に七時十分を過ぐ乃ち捷路を小山田に取り進む里許にして一行既に山中にあり老鶯、杜鴇?聲相和して遥かに見ゆる早乙女か田植の様なと真個の好画題なり此辺山浅ふして採集の材料仙台付近と相似たれとも既に数種の獲物あり漸く進て永野を過き一時過き遠刈田温泉場に着す順路を取れは五里半の道程なるも山間の捷路を取りたれは一里許近しと云ふ旅舎遠藤に投す時猶ほ早けれとも爰に宿泊と定めぬ此日元来青根温泉場に宿泊の予定にて余等と数名の生徒は岐路に入りて採集に従事せし際一半の生徒と離れし為め一半は一里半前進して予定地青根迄至れり余等は遠刈田に至り前路を問ふに翌日青根より登山して再ひ青根に下る方採集材料も多からんとの説により明朝前進の一隊を呼ひ迎ふる事となしぬ此行き違ひの為に三日登山の時刻後れ刈田嶽絶頂の噴火口を探見する能はさりしは甚た遺憾なりき其は扠て措き遠刈田に足を留めたる一行は倉皇旅装を解て浴を試む湧出泉量少なくして各旅舎に内湯を設くる能はさる為か浴場は二棟にして道路の中央にあり赤條々たる男女混浴の様四辺より見へすきて到底貴顕紳士の遊浴に適すへくもあらす泉質は単純泉なるが湧出の少き為稍不潔なるは将来大温泉場たるの資格なきか如し併し二高生の修学旅行とて旅舎の優遇甚た尽せるは大に一行の意を得たり三日七時半前進の一行青根より来りけれは直に発途行く事半里許にして路漸く嶮し仙台付近に見る熟知の植物は採集せす未た実見を経さるもののみを採集しつつ益昇れは愈嶮にして十時蔵王山山腹川音嶽硫黄製造所(川路嶽硫黄産出地なり)に達す蔵王山の続き川音嶽の硫黄鉱は熊本人樋口逸士氏の所有に係り採掘に鉱石を前記硫黄製造所にて昇華せしめ重に桿状硫黄と為して東京に出荷す規模模広大と云ふにはあらねと一ヶ月の製造額多き時は五千円に達すと云ふ製造所を参観の後諸携帯品を預け軽装して先す賽の河原に向て登山す此辺より漸く深山の植物を採集すること得たり惜しむらくは時期未た早くして開花の植物割合に少かりし昇ること幾何もなくして千寿の豁を隔てて遠く一帯の白練断崖は懸る十余丈之を山中名勝の一なる不動瀑と為す奔流の様能く日光の湯滝に似て亦遜色なし更に昇りて不動瀑の上流に達すれは渓間一面積雲凝て一個の大硝子板を為し気温頓に降て冷気人を襲ふ気温を検するに十六度にして仙台市と少くとも十度の差あり験気器を見るに海上三千五百尺を示せり岩角に腰打掛けて雪を剥り渇を医し行厨を開て腹を固め休憩霎時時又昇らんとしてとある岩間を見れは無数の茅膏菜(もうせんごけ)所せき迄叢生せり未た華本を抜かされとも帰校の上培養せんとて數拾株を採集し尚を賽の河原えと前進す時既に一時昇る三千九百尺に至りて将に植物繁茂の区域を脱して火山帯には入るらんとするや雪霧足下より起こり大雨至らんとして光景頗る惨澹たり降り出てては難儀なれは衆を制して下山に決し二時先の硫黄製造所に達す時に四山濃霧凝て風さへ加はり忽ちに雨を吹き来りけれは疾走山を下り四時山腹の青根温泉場に至り佐藤仁右衛門に投す客舎三戸あり佐藤仁右衛門、丹野七兵衛相対して家頗る壮大亦遠刈田の比にあらす温泉の湧量饒多にして各内湯を設く蒼皇浴を試みれは温泉水清くして快言うふへからす質は弱塩類泉にして硫黄亜爾加里を最多とし格魯児亜爾加里之に亜く浴了て楼に椅り四望すれは大雨盆を傾けて雨烟房に満つ乃ち戸○を閉ち採集の植物を処理し團楽茗を啜り菓を喫するも衆皆明日の進行方略に(艱?)むもの如し乃ち雨天なれは滞在と決し寢に就く五日早起暁天を望めは雨(斂?)て露飛ふも頗る急なり
八時頃四風雲を吹き散して日光前山に映す躍雀装を整へて名産の挽物細工(坏?)思ひ思ひに土産を調へ客舎を出つ青根は尚海上九百尺の高家にあり遠山起伏の間を昇降すれとも西北三里川崎に至る迄道稍坦耕作能く至れり此の辺の植物は仙台付近に見るものみにて珍奇の獲物もなく川崎より一層山間に入る起伏連澹昇降常なく槍父?に問ふに捷路を以てし樵夫に逢ふ毎に前程を問ふ(坏?)亦前日登山の勇気なく四時過くる頃漸くにして秋保温泉場に着きぬ此日多くは喬木繁茂の間を行く事とてあつもりそう其他二三の採集を為したる迄なり秋保は草鞋を佐藤勘三郎方に解く仙台を去る僅かに六里に道又平坦なれとも泉量僅少にして到底紳士の遊浴場に適せす純乎さる僻村の温泉場にして客は皆自炊法を執るか故に普通浴客を待つ事甚さ至らす浴桶狭隘にして泉水の変換少なけれは汚垢沈滞して市中の夜風呂に入るか如し泉質は塩類泉にして固形物は蓋し青根に倍せんか明はれ五日天気甚た晴朗八時客舎を出て十二時半長町停車場に着き十二時五十分の北行汽車にて仙台に帰る帰路紀念の為白崎写真店に至り草鞋掛けにて撮影し各家に帰る時に五日午後三時採集植物は未取調附か(ぬ?)ものあれともその重なるものを掲くれは左の如し
百合科マヒズルサウ、ヒメクワンザウ、蘭科エビ子、ツレサキサウ、アツモロサウ、松杉科ユニペルス、(蕁?)麻科ウワバミ、○形科ハナウド、五加科ウコギ、樺木科カンバ、齋○果科エゴノキ、白前科フナパラサウ、胡蝶形科ニワフジ、ミヤコグサ科ムラサキシキブ、大戟科タカトウダイ、天南星科テンナンセイ、毒空木科ドクウツギ、石南科ウラジロヨウラク、コメバツガサクラ、サラサドウタン、ウアクチコウム属一種、唇形科ウツボグサ、桜草科ツマトリサウ、岩桜科イハカガミ、玄参科ホタルクロ、忍冬科カマヅミ、金魚藻科キンキヨモ

(註)

*須田勝三郎
東京大学製薬学科第2回生(明治12年卒)、第二高等中学校第二代薬学科長
**篠原吉祥
明治27年 第二高等中学校醫学部藥学科卒、明治30年 第二高等学校助教授、明治45年 仙台醫学専門部助教授、大正3年 仙台醫学専門部教授

 あとがき
以上の拙文は昨年発行の「薬用植物友の会」会報に寄稿したものを改めたものである。仙台停車場から汽車で大河原停車場ー遠狩田ー蔵王ー青根ー川崎ー秋保ー長町停車場から汽車で仙台停車場の経路かと思われる。本薬学部で学生打ち揃って薬用植物採集へ出かけるということは何時の頃からか耳にしなくなって久しい。近頃、植物の形態を見て即座に植物の名前を言い当てる医学部出身の知人、友人達に出合うと実に羨ましく思う。それと同時に漢方薬云々などと口にするが、それらの形態を見て判別できない自分に気付いて、薬学出身なのにと何やら恥ずかしい思いすらする。若い頃の不勉強を嘆いても後の祭りである。文末の記載されている植物は近時の命名とは大分異なると想像はされるが、それが一体何なのかも見当すらつかない。生薬学を専門にする研究室の方々にお聞きしたいものである。